崇禅寺の歴史
当寺は、奈良時代の天平年間(724~748年)に法相宗の行基によって創建されました。その後、嘉吉元年(1441年)6月の嘉吉の乱で、室町幕府6代将軍足利義教公が、播磨守護赤松満祐に京都で殺害され、赤松の一党が居城の白旗城に逃げ落ちる途中、義教公の首を当寺に葬った因縁により、翌年(1442年)に時の摂津守護細川持賢より大伽藍と寺領の寄進をうけ、足利義教公ならびに細川家の菩堤寺として再興されました。その折、徳叟亨隣大和尚を開山とする曹洞宗に改められました。このため、当寺には足利義教公の首塚と徳叟亨隣大和尚の墓があり、またその墓と並んで細川ガラシヤ夫人の墓があります。細川ガラシヤ夫人は、関ヶ原の戦いの直前、夫の細川忠興が家康方の先鋒となって出陣後、石田三成がガラシヤ夫人を人質にしようと攻め寄せた際に、小笠原少齊の長刀の許に、37歳の生命を落として婦徳を全うした敬虔なキリシタンでした。ザビエルの弟子オルガンチノがガラシヤ夫人と殉死者の遺骨を拾い、細川家ゆかりの当寺に埋葬したものです。
足利義教公の首塚(中央) 細川ガラシヤ夫人の墓(左)
また正徳5年(1715年)11月4日に当寺境内でだまし討ちとなった遠城兄弟の墓があります。大和郡山の藩士遠城治左衛門と安藤喜八郎の兄弟は、末弟の宗左衛門が剣術の試合で負かした生田伝八郎に闇討ちとなった仇を討とうとして、伝八郎の多勢の門弟らのために崇禅寺馬場で返討ちになったので、当時の住職14世門啓天岑大和尚と元江戸町方与力の勝見宗春氏が墓碑を建立して亡魂を弔ったものです。
遠城兄弟(遠城治左衛門と安藤喜八郎)の墓
当寺の伽藍は文明15年(1483年)以来しばしば兵火にかかり、慶安年間(1648~1651年)に再建されましたが、昭和20年6月7日の大阪大空襲で再び灰燼に帰しました。現在の伽藍は、平成元年に再建されたもので、本堂は旧本堂と同規模の入母屋造であり、客殿は奈良時代の創建という当寺の歴史を表すため正倉院をモデルに建立されました。なお、明治2年(1869年)3月から8月まで当寺の伽藍の1つが、摂津県の県庁舎に当てられていたため、大阪府並びに大阪市の史跡に指定されています。
山門前にある県庁所在地跡碑
曹洞宗崇禅寺の歴代住職
開山・徳叟亨隣大和尚の像(開山堂)
開山 徳叟亨隣(中興)
2世 進堂霊勤
3世 雪溪宗乗
4世 桃源宗見
5世 汝先禅祖
6世 魏甫禅梁
7世 天英玄秀
8世 悦堂周欣
9世 華翁周栄
10世 大通全勝
11世 雪岩曇英
12世 直源閑刹
13世 桂堂長昌
14世 門啓天岑
15世 月村啓峯
16世 提山道全
17世 大方無外
18世 天巖石童
19世 無學懶文
20世 梅岳俊英
21世 古巖道規
22世 禅峰澤重
23世 要山玄秀
24世 大雄玄虎
25世 仙國得隨
26世 龍禅道岳
27世 佛心禅明
28世 實參祖學
29世 實到祖秀
30世 實相秀爾(現住)